立山連峰の雪渓蟲(せっけいむし)、そして叔父のこと

  私が、まだ小学1年生になる前のことです。 
  真夏の炎天下の庭で、結婚前の叔父が父―すなわち私の祖父―に命じられて、しゃがみこんで草むしりをしていて、私を見つけると手招きしました。

 私が並んでしゃがむと、叔父は、乾燥してまくれ上がった地表をあっちこっち指さします。そこには、小豆の粒の4分の1ぐらいの、小さいそして奥の深そうな暗闇の穴が開いています。

「ほ~ら、よーっ見とんがやぞ」と叔父は言いながら、オオバコを引き抜き、白いひげ根をちぎって1本ずつ、穴のひとつひとつにそーっと差し込みました。

 しばらくして、そのひげ根が、小刻みに動き出します。叔父は、ひげ根の1本をゆっくり、静か~に穴から引き抜きました。

 すると、何やらウジ虫がひげ根にしがみ付いていて、釣り上げられました。叔父は、私を見てニコッと笑います。

 私は残りのひげ根を順番に引き上げ、釣れた…、ダメだ…と夢中になって遊びました。

 …その後、そのウジ虫は成虫になると、美しいまだら模様のつやつやした翅のハンミョウという昆虫になるらしい、と聞いたことがあり、ハンミョウなら我が家の庭で見つけたことがありました。しかし、穴のウジ虫がハンミョウで正しいのか否か確信が持てず、昆虫図鑑を見かけては、調べるようになりました。

 そんなわけで、最近も、いつもの書店で生物の書棚を回遊していたときでした。

 今時の昆虫図鑑の“図”鑑というよりも“写真”鑑というべき鮮明さに見とれながら、『日本百名虫』(坂爪真吾著)をパラパラしていたら、ハンミョウの話題ではないのだけれど「立山連峰」「アルプス」という文字が目に入りました。その記述は、次のようなものでした。

 冬は昆虫のいない季節だと思っている人も多いだろう。しかし虫好きにとって、冬場は重要なシーズンである。(中略)
 冬に見られる昆虫は、雪上を歩くクモガタガガンボやガガンボダマシ、ユキシリアゲムシなど、翅(はね)の退化した種が多い。翅を無くすことで身体の表面積を小さくして余計な放熱を防ぎ、雪の中に潜り込むこともできる。クモやカマキリなどの天敵が姿を消す冬場では、飛んで逃げる必要もない。
 そんな冬に現れる「無翅(むし)の虫」の代表が、セッケイカワゲラだ。610ミリの小型種で、北海道と本州に分布する。1920年代に立山連峰や日本アルプス等で発見され、当時は「雪渓蟲(せっけいむし)」と呼ばれていた。雪の上で活動するカワゲラは国内で10種以上が知られている。(中略)
  河川に棲む水生昆虫の中には、卵や幼虫が自然に下流へと流されてしまうため、成虫になった段階で、生まれ故郷である上流域に帰るために、遡上飛行をする種がいる。(中略)翅の無いセッケイカワゲラは遡上飛行ができないため、「遡上歩行」として、ひたすら雪の上を歩きつづけることになる。

 そして、著者の坂爪真吾氏は、次のようにお書きです。

 セッケイカワゲラの雪中行軍は、生まれ故郷の上流に帰るためのグレートジャーニーなのだ。鮭のように派手なジャンプをせず、鮮やかな婚姻色も出ないため、誰にも気付かれないが、彼らの旅は毎年、人知れず続いていく。

 この一節を読んでからというもの、雪に覆われている立山連峰を富山平野から仰ぎ見ると、雪渓蟲の健気さに、胸が締め付けられる思いです。

 ちなみに、叔父は山好きで、冬山にも出かけていました。
 登山準備で、座敷の畳の上にピッケルやらカンジキを並べ散らかしているとき、叔父はリュックに詰める小豆の缶詰を私にかざしながら言っていました。
「山の中で、この小豆に、雪渓をまぶして食べると、うんまいぞー」

 母―すなわち私の祖母―は、出発前の叔父の名前を呼んでは、「また行くがけ。気を付けられや」と声をかけていました。

 その後、叔父は立山観光の開発に携わり、“雪の大谷”を“雪の回廊”、“白い回廊”と呼んでいました。

(引用参考文献)
日本百名虫 フォトジェニックな虫たち』坂爪真吾著 文春新書1416 20237月刊