富山湾の潜水70メートル
いつもの書店で、理工系の書棚の前をぶらついていました。
ちょっと気になる書名を引き出しては、チラチラと開いていたら―要するに立ち読みですがー『潜水士の道~五人の師匠から海の未来~』というエッセイ集に行き当たりました。
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富山に生まれ育った私は、子供の頃に海水浴と言えば、岩瀬浜でした。
戦後まもなく生まれた私の場合、小学校にプールが出来たのは、3年生か4年生の時分でした。
そして、私が住んでいる在所は農村地帯で、農業用の灌漑用水が流れていて、いつの間にかパラチオンという毒性のある農薬が散布されるようになり、赤い三角形の紙の旗が田圃ごとに立てられて、河川での水泳は禁止されていました。
言い訳がましいのですが、そんなこともあって私は水泳が不得手でした。それでも、子供の頃、何度か海水浴に行ったことがあります。
戦前生まれの叔父は水泳が得意で、そんな叔父に連れられて私の妹も一緒に2、3度、岩瀬の浜に行きました。
競泳用の水中眼鏡は極めて珍しい時代でしたから、海水浴客は誰もが裸眼のままでした。そうなると、海中で眼を開けると、視界はボヤーッとしているし、塩水で痛いし、何が面白いのだろうか?と、思ったものでした。
しかし、川魚をヤスで突きとるのが好きだった叔父はガラス製の丸い水中眼鏡を持っていて、それを貸してくれました。
今思えばたかだか水深2メートルほどの海底でしたが、水中眼鏡ごしに覗くと、海水は濁っているし、海藻の切れっぱしはフラフラ漂っているし、海底は砂利と砂ばかりです。その水中眼鏡は子供の私の顔には大きすぎて、たちまち海水が入ってきて、びっくりして海水を飲みこみ、むせて咳き込み、さんざんでした。
…私の富山湾の思い出は、そんなものでした。
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ところが、今手にしたエッセイ集『潜水士の道~五人の師匠から海の未来~』によると、小見出しに「富山湾における七十メートル潜水」とあります。濁った富山湾で、何があるんだろうと読んでみると、
ドライチャンバーでの試験が順調に終了し、いよいよ富山湾(千田注:氷見)の実海域での七十メートル潜水試験を行うことになった。潜水試験中に潜水士は、ゴンドラ内で重量物を持ち上げたり、大ハンマーでコンクリート塊を叩くなど負荷をかける動作を行い、医師班は、潜水者個々の血中の気泡の発生から消滅までの時間を記録する。
再圧タンク関連の準備は、梨本先生をリーダーとして(中略)、埼玉医科大学に着任後、潜水に関する活動が国内外に認められるようになった梨本先生の研究室には、俊英が結集していた。
私たちの富山湾が魚の宝庫であるとは知っているけれど、“ブリの氷見”の波の下で、潜水士たちが学術研究をしていたなんて、驚きました。
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…さて、ここまで書いてきて、私には、海の思い出がもう一つあることに気がつきました。
高校の同級生の某君が、どこだかの遠洋で潜水艇による深海研究をしているというか、深海研究のために潜水艇の研究をしているというか、その潜水艇の目指す深さは数千メートルの海底らしい、そんなことを週刊誌で読んだことがありました。
その週刊誌のスクラップが見当たらないのは残念ですが…彼は、元気だろうか?
(引用参考文献)
『潜水士の道~五人の師匠から海の未来~』鉄芳松著 ㈱マガジンランド 2020年8月刊