藤澤廉之助さん、第一次世界大戦の中、敵国ドイツに居残った富山県人
昨年の秋、突然、東京の知人から、電話がかかってきました。
「もしもし、千田さん?藤澤××という人、知ってる?あなたの富山県人じゃないの?」
「××って何?」
「××の箇所が読めないんだけど、“藤澤”だけで、貴方ならわかると思ったけど…」
「どんな人?」
「第一次世界大戦 (1914-18)の前から、ドイツに住んでいて、大戦中は、敵国ドイツに残っていた人で…」
「どうして、富山県人ってわかるの?」
「古い新聞『富山読売』のコピーがあって、そこに出ていて…」
「何をした人なの?」
「それを知りたいのよ。コピーがぼやけていて、その再コピーを送るわ」
数日後、私から先方へ
「見たよ。藤澤廉之助と読めるけど、富山県立図書館では全くノーマークの人だって。資料は無いよ」
「そうなの…」
「逆に尋ねられたよ“誰ですか?”って。僕の方でちょっと調べてみるよ」
…以下は、その調査の一部です
藤澤廉之助(ふじさわ・れんのすけ)
1881(明治14)年生まれ、没年不明。原籍富山、幼少期(?)金沢に居住を移したか?
金沢一中、明治37年第四高等学校卒業、東京帝大独法。
ドイツで長年ジャーナリストとして活動し、その間、和独・独和辞書の編纂などを行う。
ドイツ女性と結婚。子息が、父の故郷として富山を訪れている。
―参考書籍⑴「大戦中の独逸に居残って」藤澤廉之助著 より―
私は日露戦争(千田注1904-1905)の終つた翌年の十二月に、経済学研究の目的で独逸に留学したが、それ切り彼地に腰を据ゑて、ドイツの新聞の通信員たる傍ら、日独辞書、独和辞典等を編纂したり、絹、羽二重、瑞西縮緬等の商業に自由次したりして居た。十数年間の生活は、私にとって独逸を殆ど故郷の如き親しみの情を懐かしめるに至ったのであるが、俄然千九百十四年八月、彼の欧州大戦の勃発するや、日本は連合国側として参戦を宣言したので、此の第二の故郷は忽ちにして敵国と早変りして了った。
日独国交が断絶するや、伯林に滞在した居た日本人四十名計りは、怱々帰国の準備に取掛かった。所が恰度八月二十三日、私はライスター街の日本人大使館へ行って、正に立出でようとする途端、予て網を張つてゐたらしい独逸の刑事に有無を言はさず自動車で警視庁へ連れ込まれ、加之に自動車代を支払われた。そして警視庁内の独房に入れられて重い扉をピタリと閉ぢて厳重に錠を卸されてしまった。〈中略〉
四十名の日本人中大部分は、米国大使館の保護のもと、国境へ退去して、残るは私と辻、老川の三名だけになつた。而もその二名も相次いで帰国して了つたが、私は此戦争は必ずドイツが敗北するに相違ないと信じたから、内部から瓦解する光景を見てやらうと単身敵国内に踏留まる事にした。〈後略〉
―参考書⑵「独逸に居残った私の感想」藤澤廉之助著より―
私は戦前から戦後まで居残ったひとりであるが、その感想のひとつとして茲では独逸人の性格について述べたいのである。「独逸人の性格」と云へば従来我邦には、〈後略〉
―参考書⑶より―
ドイツに対する髙い評価と不信感がないまぜになった観測であるが、その後のナチスの台頭を考えると、それなりに的確な見通しだったとも言える。大戦中のドイツを内部から目撃した唯一の日本ジャーナリストとして面目躍如というべきであろうか。
(引用参考文献)
『「新青年」復刻版』1921(大正10)年(第2巻)合本4 第7号(7月号)・第8号(8月号)本の友社 2001年1月刊
『新小説』春陽堂 1921(大正10)年6月刊
『「八月の砲声」を聞いた日本人-第一次世界大戦と植村尚清「ドイツ幽閉記」』奈良岡聰智著 千倉書房 2013年3月刊
『第四高等学校同窓会 会員名簿 同窓会会報第一号附録』第四高等学校同窓会 1926(大正15)年11年刊Taschenworterbuch der japanischen Umgangssprache 新訳和独辞典、新訳独和辞典 藤澤廉之助著 Langenscheidtsche-Verlagsbbuchhandlung社 1911年刊
『北陸地方に存するドイツ関連史跡の総合的検討』小原淳著 WASEDA RILAS Journal NO.9
『Japanische Studenten an der Berliner Universitat 1870-1914』Rudolf Haritman著 Mori-Ogai-Gedenkstatte.1997
Ostasienabteilung der Staatsbibliothek Berlin, Lexikon Japans Studierende-Listenansicht
(千田注)独逸語表記のウムラウトは省略