「荒城の月」、瀧廉太郎と福井直秋と
その日、寝床でボーッとしながら寝返りをうって、うつ伏せになりました。それから、低い視線のまま枕元の先を見たら、読み散らかした週刊誌と週刊誌の間に、新書が挟まっていました。
うむ? 購入した記憶が無くて…それは「日本のピアニスト―その軌跡と現在地」という光文社新書でした。
戸惑いましたが、わずか1か月ほど前、いつもの書店で購入した場面を、ボンヤリと思い出しました。奥付の発刊年月日は2か月足らず前なので、新刊として店頭に並んでいるのを早々に購入したようです。ただしその時は、他に目的の書籍を探していて、この新書はついでに手にしたようです。
そんな訳で、まァ、これもなにかの縁と、広げてみました。折り目や開き目など全くついてないので、購入してはみたものの、直ちに積読(ツンドク)状態だったということになります。
布団の中で横になったままザーッと流しながら開いていったら、ここに出てくるピアニスト達は、クラシックの曲を弾く人で、ショパン・コンクールとか、ベートーベンなどの名前が出てきます。ジャズやブギウギを弾くような人たちのことではないことは確かです。
ところが…、どうして、こんな本を買っちゃったのかと思いつつ、先を読み進めていたら、次のような箇所があったのです。
戦後の新学校制度になり、東京には、1949年(昭和24年)に武蔵野音楽大学、1950年(昭和25年)に国立(くにたち)音楽大学―中略―私立の音楽大学が続々と設立された。
武蔵野音楽大学の前身は、東京音楽校在学中に瀧廉太郎と知己を得ていた作詞・作曲家の福井直秋(1877年、富山生まれ)によって1929年(昭和4)に創設された「武蔵野音楽学校」。福井は歌曲や器楽曲の創作を盛んにおこなう一方、声楽指導法や歌曲集編纂などにも力を入れていた。創立者のそうした音楽活動から、武蔵野音楽大学はとりわけ声楽に強く、多くの声楽家を輩出している。
ここに出てくる福井直秋(ふくい・なおあき1877-1963)さんが富山生まれの音楽家であることは、私の音楽好きの友人から聞いていましたが、声楽に力を入れ、そして、まさか瀧廉太郎(たき・れんたろう1979-1903)と知己を得ていたとは知りませんでした。どうやら、此処にひっかかって、この新書を購入したようなのです。
瀧廉太郎と言えば、あの“春高楼の花の宴~♫”の「荒城の月」の作曲者として高名な作曲家です。彼は幼少の頃、父親の職業の関係で、富山城址のなかの官舎で2年足らず(千田注:1886/8-1888/4)ながら過ごしたことは知っていました。また、その後に大分県の竹田で古城を見て育ったことから「荒城の月」の瀧のモデルは、富山か竹田かと相互の地元びいきの話のタネになっています。あるいは、作詞の土井晩翠の仙台かとも言われています。
そこで、私は思うのです。
― 東京音楽学校の或る日のこと ―
「福井さん、貴方の張りのある朗々たる歌声、聞き惚れますよ」
「声楽は良いですね、瀧さん」
「福井さんに歌っていただける、朗々たる楽曲をつくりたいものだなァ」
「貴方のオルガンの伴奏が、楽しみです」
「それはそうと、福井さんは、富山の出身だそうですね」
「上市という田舎ですよ」
「そうですか、私は、小さいころ、富山の総曲輪とかいう街中で過ごしたんですよ」
「それはそれは奇遇だ、私の上市は、見わたす限り田圃でしたが」
「私は、富山城の中に、住んでいたんですよ」
「瀧さん、おサムライですか?」
「いや御一新の後で、父の仕事で富山城址の中の官舎です。ひと冬でしたが、雪は冷たかった。
雪が降り始めると、静かになるっていうか、辺り一面シーンとなるんですね」
「そうそう、雪の降り始めには、気がつきますよ、急に静寂になるんです」
「富山は加賀百万石の分家なのに、堀の石垣もだいぶ崩れ、天守閣のないわびしい城址だったな」
「そこが残念ですよ、瀧さん」
「しかし、雪解けの後に咲き誇る桜、立山から顔を出す月の影、どれも鮮やかで、今も感慨深い」
…だから私は思うのです。
瀧は、福井との会話から、あの幼少の7歳頃の2年足らずの富山の生活が蘇ったのではないか。忘れかけていた富山の風月花が、再び刻み込まれたのではないか。
福井の歌声もヒントになって、「荒城の月」の朗々たる旋律が浮かんだのではないか。
瀧は1894年に東京音楽学校に入学し、福井は1989年に入学。瀧は1900年に「荒城の月」を発表し、翌1901年にドイツへ留学した。翌1902年、福井は卒業し、その翌年1903年に瀧は死去する。
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ボーッと、夢かウツツか、廉太郎のオルガンの伴奏で、直秋が直立不動で歌う姿を思い浮かべながら…、私は再び寝床に潜り込んだのでした。
(引用参考文献)
『日本のピアニスト その軌跡と現在地』本間ひろむ著 光文社新書2022年10月刊