かまぼこ
仕事先で、出されたお茶を飲みながら、事務の女性に話しかけました。
「“かまぼこ”は好き?」
「ええっ? かまぼこですか?」
チョット唐突かなと思いながら、話をつづけました
「昆布巻かまぼこを、ガブリと、一本に食らいつくと、美味しいよ~」
「丸ごとですか?」
「そう、薄くペラペラに切ってあるのじゃなくてネ」
「行儀が悪いですよ」
「戦後、あまり物のない時分の子供なら、行儀が悪い…という前に、贅沢だよね」
「丸かじりって、いつ頃からですか?」
「最近だね…、酒の肴を準備していて、空腹に我慢ができなくてね、ちょいとガブリ」
■
私は、戦後間もない団塊世代の生まれです。
その小さい時分でも、新年の村の神社で、お供えの昆布やスルメに混じって、赤巻、青巻、昆布巻きのかまぼこが、薄切りでしたが、配られました。
でも…、嬉しかったけれど、この薄切りのかまぼこは、正直に言うと、スベスベ、ツルツルしていて食感が悪く、味気なく感じていました。
ただし、その当時のことは、悪い思い出ばかりではありません。
あの時代は、婚礼の引き出物の御裾分けで、近隣から沢山のかまぼこを頂戴したものです。
それを煮たり、ちょいと焦げ目がつくまで焼いたり、あるいは天婦羅にした時は、その熱々のかまぼこを、美味しく食べたものでした。
しかし、私の少ない経験ですが、昔はいざ知らず近頃の富山の小料理屋で、こんな具合に調理した熱々のかまぼこが出されたことはないですね~、残念だ。
「天婦羅に揚げた、鯛の細工かまぼこは、郷土料理」として自慢すべきだと思うのだけれど…。
多量ではなく少量でいいんです、板前さんから「この天婦羅、熱いから、気をつけてくださいよ」と言われながら食べてみたい。炭火で焼いて、プクーッと焦げ目の膨らんだ熱々のかまぼこも、美味しい。
■
さて、日頃のそんな思いもあって、いつもの書店で、『新訂 かまぼこの科学』という書籍を見つけて、買ってきました。それによると、
全国各地でそれぞれ前浜の魚を利用してかまぼこを作ってきたので、その地方、その土地ごとに特有な形、風味、食感をもった独自の製品が発達した。現在でもその特色をとどめた伝統製品が多数ある。―中略―
有名な板付けかまぼこには、小田原蒸しかまぼこ、京阪神の焼きかまぼこ、山口の白焼き抜きかまぼこ、宇和島の焼き抜きかまぼこ、博多蒸しかまぼこなどがある。板のついていないかまぼこには、富山の昆布巻きかまぼこ、四国、中国地方の簀巻きが―中略―
とくに富山では、鯛、富士山などの型に詰めて成形する大型の細工かまぼこが結婚式などの引き出物として多量に使われる。
私が子供の頃の富山のかまぼこは、今のように真空パックの中で息苦しそうにピッチリ閉じ込められているのではなく、薄い杉板が裏側に貼りついて、のびのびしていました。鯛や富士山の裏についている杉板を剥がしそこねて、包丁で削ったなんてことも、良い思い出です。
■
ところで、話を戻して、私が、ガブリと噛り付くと美味しいと感じるのは、なぜだろうか?
思うに、薄切りの「スベスベ」とか「ツルツル」という、冷たい食感が無いからではなかろうか。
そうだとすれば、仮に薄切りにするにしても、切断面が「ザラザラ」とか「ギザギザ」になるように切断すれば良いのではないか?そうするには、どんな刃物で、どんな切り方をすれば良いのか?
いっそのこと、刃物による薄切りではなく、手で千切ってはどうか? 千切ったコンニャクは美味しいというではないか。
と、時々、―ショウモないこと考えてるなアと、言われそうですが一思案することがあるんです。
あっ、それから、慌てて付け加えておくと、年暮れのデパート地下の食品売り場に、大小、色とりどりの細工かまぼこが、並んでいました。
そして、赤巻かまぼこの薄切りについて言えば、今でも正月の雑煮に入って、程よく味が染みている、これは美味しい。
(引用参考文献)
『新訂 かまぼこの科学』岡田実著 成山堂書店 1999年5月刊