「阿房列車」と内田百閒と、素琴こと志田義秀さんのこと

新潮文庫「百鬼園随筆」表紙カバー。
挿画は、芥川龍之介が最晩年に描いた内田百閒の似顔絵
数年前に鬼籍に入った年上の知人Eさんのことを、最近になって、なんとなく思い出すことがあります。鉄道マニアのEさんの愛読書は、内田百閒(1889-1971)の「阿房列車」シリーズで、熱心に話してくれました。
そんなこともあって、いつもの書店で文庫本の棚の前に立ったとき、Eさんが懐かしくなって、「第二阿房列車」を買ってきました。
最初の話は「雪中新潟阿房列車」で、開いて4ページ目のところに、ズバリ、富山がありました。仙台から京都への鉄道の旅で、東京を通らない旅程を考える中で、北陸線経由の箇所で富山が出てきました。
早速“富山を発見”と思ったのだけれど、「そんなので喜んじゃ、千チャン、甘いね~」と言うEさんの顔が浮かんだので、一時保留しました。
それから、数ヶ月経ってのことです。
別の知人から、「栂(とが)の木資料館のしおり」という、8ページだての立派なパンフレットをもらいました。
それによると、「栂の木資料館」というのは、富山市内にあって、日本歌謡の全ての分野、万葉集から現代の歌謡曲まで収めてある私設研究資料館です。志田義秀(1876-1946)、志田延義(1906-2003)の親子二代の、国文学研究の足跡等が、貴重な物品とともに収蔵展示されているとのことです。
富山県に志田とおっしゃる国文学の重要な学者がおいでになることは側聞していましたが、これまで私は、お一人のことだとボンヤリ思っていました。親子お二人とは知らなくて、今、目からうろこが落ちる思いです。
それで、パンフレットによると、明治9年生まれの父親、義秀さんは、松尾芭蕉の俳諧史を、東大で初めて講じるなどした人で、正岡子規の根岸の子規庵を尋ねるなどし、素琴(そきん)の号で俳句を発表していたとあります。
さらにパンフレットに次のように載っています。
義秀三十二歳の明治四十一年八月、旧制第六高等学校の講師となり岡山に赴任、翌十月教授になる。岡山の義秀は俳諧人を多く育て、その一人に内田百閒がいる。
内田百閒の随筆には「素琴先生」と「漱石先生」のことが書かれている。
うむ?内田百閒だって?と、私は、ここで驚いたわけですよ。百閒は、百鬼園とも号しているので、鬼籍の中のEさんが、手引きしてくれたのかな?と、因縁めいたものを感じたわけです。
早速私は書店に走りました。新潮文庫の棚にあった「百鬼園随筆」を抜き出すと、ずばり「素琴先生」と題する一文が、載っていました。その書き出しは、
明治四十何年、何か他の事にひっかけて、繰ってみれば、直ぐわかると思うけれど、四十年代の早早に違いないのである。素琴先生がフロックコートを着て、岡山の第六高等学校に赴任して来られた。
素琴先生は、大講堂の演壇に、箒(ほうき)の如き頭を振りたてて、新任の挨拶をせられるのである。
6ページほどの随筆ですが、素琴さんの風貌の描写といい実に愉快です。しかし、この随筆の中には、素琴さんが、“富山県の生まれ”とも、本名が“志田義秀”とも書いてありません。
………まだまだ先だけれど、Eさんに会ったら、「Eさん、知っていた?」と訊ねてみたい。
「当然知ってるよ、千チャン、甘いね~」と、メガネ越しにニヤニヤ笑いながら言いそうな、まだまだいろいろ知っていそうなEさんだった。
(引用参考文献)
『第二阿房列車』内田百閒著 新潮文庫 令和2年7月刊
『百鬼園随筆』内田百閒著 新潮文庫 令和3年9月刊
『栂の木資料館のしおり』長念寺 発行
『百閒、まだ死なざるや 内田百閒伝』山本一生著 中央公論社 2021年6月刊