1300年前、単身赴任の部下の浮気、それを諫める大伴家持

 

 昨年の年の暮れのことです。寝そべってミカンを食べながら、買ったばかりの『週刊新潮』の新年特大号を開いたら、次のような見出しの特集記事が出てきました。

 ちょっと姿勢をただしてしまいました。見出しには、面白くタメになる「古典文学」を味わう、とあります。

『源氏物語』は処世術の「実用書」
『万葉集』は至高の「エロ本」
『平家物語』は心の安寧“セラピー効果”
『徒然草』は知恵の「終活本」

 おっ、「万葉集がエロ本」とあったのです。本当かな? 
   雑誌の該当ページを見たら、次のような話が紹介されていました。

赴任先の越中で知り合った遊女と結婚したいと言いだした既婚者である部下を大伴家持が説教した歌、そうこうするうち、奈良から部下の妻が早馬でやって来て町が大騒ぎになるという歌もある(以上、巻第十八)
悲喜こもごもの人の営みがそのままうたわれているところが『万葉集』の魅力である。

 うむ? 富山で部下が浮気? その部下を諫める大伴家持?
 富山の女性がどんなに魅力的だったのか想像してしまいますが、ま、それはそれとして、万葉集で該当箇所を、調べてみました。

 それは、万葉集の巻第18の中で、大伴家持の作った5首でした。
 4106番の長歌・続く4107、4108、4109番の反歌(短歌)、及び4110番の短歌で、合計5首です。
 家持が、越中へ単身赴任して来ている部下の尾張少昨(おわりのをさく)を、諫めている歌でした。

 (千田注:この当時、大伴家持は、国司として越中に在任していた。全20巻ある万葉集には全部で4516首の歌があり、後世の研究者によって、巻1の第1番目の歌を1番とし、巻20の最終歌を4516番と連番が付いている)

 さて、先ず、4106番の長歌の<前書き>で、家持は、次のように語っています。その一部をご紹介します。

【原文】
  義夫之道 情存無別一家同財 豈有忘旧愛新之志哉 所以綴作數行之歌令悔棄旧之惑 其詞曰

【読み下し文】
  義夫の道は、情別なきに存し、一家財を同じくす。
  あに旧きを忘れ新しきを愛しぶる志あらめや。
  このゆゑに数行の歌を綴り作し、旧きを棄つる惑ひを悔いしむ。その詞に曰く……

【現代語訳】
  義夫の道とは、人情として夫婦は平等とする点にあり、ひとつの
  家で財産を共有するのが当然である。

  どうして古い妻を忘れ新しい女を愛する気持ちなどあってよかろうか。
  そこで、数行の歌を作り、古い妻を捨てる(部下の)迷いを後悔さ  
  せようとするものである。
  その歌詞とは……

 さあ、この<前書き>はいかがでしょうか? 意外にも現代に通ずるものがあったりして…… 
 しかし、まあ、家持による延々と続く長歌のお説教は、省略します。

 それに続く反歌3首なんですが、

 4107 あをによし 奈良にある妹が 高々に 待つらむ心 しかにはあらじか

 【現代語訳】   
   (あをによし)奈良にいる妻が ひたすら待っているだろう心よ、 
   そういうものではないだろうか

 4108 里人の 見る目恥づかし 左夫流児に さどはす君が 宮出後姿

 【現代語訳】 
   里人の見る目が恥ずかしいではないか。左夫流という女に迷っ  
   ている君の出勤する後ろ姿は。 

(千田注:“左夫流”は“さぶる”と読み、遊女の名前。当時の 
遊女は、今日の言葉から連想されるそれとは異なり、貴人の宴 
に持して歌も作り、古い歌を披露したりもした)

 4109 紅は うつろうものそ 橡(つるはみ)の なれにし衣に なほ及かめやも

 【現代語訳】 
   紅色(新しい女)は褪せやすいもの。橡色の着古した衣(古女房) 
   に、やはりかなうはずがない。

 と、5月15日に、大伴家持が歌を詠んでいます。
 ところが、なんと2日後の5月17日、同じく家持が、もう1首、短歌を詠んでいます。
 大騒動がおきたらしいのです。

 (千田注:万葉集では、「歌日記」といって、家持が越中に在任中の和歌には、年月日が付いているものがある。今回の一連のエピソードにも日付がある)

 4110番のその短歌、先ず<前書き>によると、

先妻(こなみ=本妻)、夫君(せのきみ)の喚(よ)ぶ使ひを待たずして、みずから来る時に作る歌一首

 そして、家持が作ったその歌一首というのが、次のとおりです、

 4110 左夫流児が 斎(いつ)きし殿に 鈴掛けぬ 駅馬(はゆま)下(くだ)れり 里もとどろに

 【現代語訳】 
   左夫流という女が大切にお仕えしていたお屋敷に、駅鈴(えき 
   れい)も付けない駅馬(えきば)が(都から)下ってきた。さあ
   里中は大騒ぎだ。

 ここで「駅鈴も付けない」というのは、「私用で」ということのようです。

 つまり、夫である少昨が、妻を呼び寄せるために使いを妻に派遣したわけでもないのに、都から奥さんが前触れもなく、突然に乗り込んできたということなのでしょう。

 奥さんは地獄耳ですか? 旦那は、布団を頭からかぶって、震えてるんじゃなかろうか、知らんけど……
 “とどろに”とはすごいなあ、「轟き渡る」ってことでしょう?

 これが天平感宝元年5月17日、つまり、今から約1300年前の、グレゴリオ暦(太陽暦)749年6月10日、越中富山に轟いた大騒動です。

 ちなみに、6月といえば、梅雨の時期と思われるのですが、奥さんは、降る雨をものともせず、パッカパッカとやって来たのでしょうか?

 そういえば、江戸時代の松尾芭蕉は、『奥の細道』に、「名月や北国日和定めなき」と書きとめ、天気の不安定な北陸路を描写しているのですが……

 なんだか出来過ぎの展開というか結末で、私が専門家から教えてもらったところによると、
「……てな具合になるから、浮気は止めなさい」という家持による忠告というか、脅かしだという見解もあるらしい。

 ちょうどこの頃の奈良では、大仏を建造しようと大忙しです。

 中国の唐では、玄宗皇帝が楊貴妃にうつつを抜かしていました……とさ

(引用参考文献)
『週刊新潮 12月30日・1月6日新年特大号』新潮社 2021年12月23日発売
『越中万葉百科』編者 高岡市万葉歴史館 笠間書院 2009年1月改訂刊