久世光彦さんと、「上海帰りのリル」

 『作詞入門』(岩波現代文庫)を読んでいました。著者は、阿久悠(1937-2007)さん、数々のヒット曲を生み出した作詞家です。その巻末の「解説」で、テレビプロデューサーの鴨下信一(1935-2021)さんが、次のように書いておいでだった。

 昭和一二年生まれの阿久悠、それより二、三歳年長の、これも亡くなった久世光彦やぼくなどが成長した昭和の「戦後」、特に終戦直後のそれは、いま定番化しているイメージとはだいぶ違っていた。

 ― 日本はすべてを喪失した― たしかにたべるものも着るものも何もなかったが、溢れかえるほどあったものがある。映画と音楽だ。(中略)

 これをしらないと、久世が『時間ですよ』『寺内貫太郎一家』などのテレビドラマで、彼の文学的業績の高踏風な嗜好とは反対の<演歌>をしばしば挿入したかがわからない。あれは視聴率対策ではなく、彼の好み(正確には好みの一つ)だった。そうでなければ、小谷夏のペンネームであれだけ多くの演歌系の作詞をするわけがない。

 ここに出てくる久世光彦(くぜてるひこ1935-2006)さんは富山県に縁ある人で、久しぶりに手持ちの著書を探したけれど見つからなかった。そこで、いつもの書店で『向田邦子との二十年』(久世光彦著 ちくま文庫)を買ってきました。読んでみたら、久世さんの子供の頃の思い出話が、ふんだんに記述されていました。

 他の著書の記述も併せてご紹介すると、久世さんは、小学校に入学したのは昭和17年、杉並第一国民学校だった。その後に札幌の中央創生国民学校に転校し、さらにその後、20年の夏には疎開も兼ねて、父母の郷里である富山に移ることになる。

 富山では、市内の田地方(でんじがた)国民学校という妙な名前(久世さんの感想)の学校の4年生に編入された。それから、10日もしないうちに富山は空襲に遭い、たった一晩で、家も学校もきれいに全焼してしまった。久世さん一家は富山から南へ数キロの農村に知人の紹介で住むことになり、新学期を熊野国民学校でむかえた。その後再び富山市内に戻り、堀川国民学校(現在の堀川小学校)に転校した。やがて富山南部高校(現在の富山高校)を卒業して上京、大学進学するのでした。富山ではいろいろな喫茶店に出入りしていたし、映画館にもかよっていた。

 さて、ここからは、私の思い出なのですが…

 昭和60年ごろ、私は、富山市内の護国神社の前にあった古書店で、戦後の教育関連の古ぼけた書籍を、たまたま手にしたことがありました。それに掲載されていた写真の1枚に、終戦後の堀川小学校をアメリカ人女性が訪問し、大勢の生徒が正面玄関で出迎え、その中心に立っている少年に、「久世〇〇君が出迎えた」と説明文が付いていたのです。この堀川小学校は、偶然にも私が通学した小学校で、小学生たちの背景となった校舎も見慣れたものだったので、その写真の記憶が強いのです。

 そこで、今になって、写真の中の久世〇〇君というのはこの久世光彦さんのことではないかと、確信に近い胸騒ぎがしました。県立図書館で調べてもらったら、久世さんが、その当時、天皇陛下の富山行幸に合わせて、「天皇陛下をお迎えして」という作文を富山のラジオで放送したという記事が見つかりました。しかし、私の探している写真の載った図書はないとのことで…、かくして、これを結末として、私はこの稿の筆を置くつもりでした。

 ……ところが、それから数日後のことです。私は、職場近くの大型書店で、久世さんの文庫本『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』を目にし、開くと、その冒頭で、小林亜星(1932-2021)、小泉今日子と久世朋子(光彦氏夫人)の3氏が久世さんを偲ぶ対談が載っていて、朋子夫人がこんな思い出話をなさっていたのです。

(久世光彦さんは)「蘇州夜曲」や「上海帰りのリル」も好きで、よく聴いていましたね。亡くなる前、ぜひ上海に行きたい、嫌いな飛行機にも乗ると言っていたのに……。

 さあ、この一文、富山の人なら、きっとお察しのとおり…、久世光彦さんの愛した歌謡曲「上海帰りのリル」は、富山県が誇る歌手、津村謙(1923-1961)の終戦直後の大ヒット曲です。ちょうど久世さんが富山南部高校に入学したその年、昭和26年のヒット曲なのです。

 「上海帰りのリル」は、おそらく当時の富山県内では、ラジオから喫茶店から、日本中のどこよりも頻繁に、ビロードの歌声と言われた美声にのせて、流れていたにちがいない。久世さんは、シャワーを浴びるように、「上海帰りのリル」を聴くことになったのではなかろうか。久世さんは、ご家族に、そんな昔話を、なさっただろうか?

 久世さんは「子供のころから、上海と聞くと胸がザワザワしたものだ。」と、別の著書でお書きなのだが…

 そんな具合に、久世さんのことを想像すると、私は、オーソン・ウェルズの映画『市民ケーン』の中で、主人公が口にした「rosebud(ローズバッド、薔薇のつぼみ)」という謎の言葉のエピソードを思い出しました。

 映画では、主人公が、幼いころ雪の降る中で遊んだソリに書いてあった「rosebud」という言葉を口にしたが、説明せずに他界したのです。それで、身辺の人たちには分からない謎の言葉として、残ったのでした。

引用参考文献)
『作詞入門―阿久式ヒット・ソングの技法』阿久悠著 岩波現代文庫 2009年9月刊
『向田邦子との二十年』久世光彦著 ちくま文庫 2009年2月刊
『ベスト・オブ・マイ・ラスト・ソング』久世光彦著 文春文庫 2009年9月刊
『追想 久世光彦』馬小舎の会 2007年2月刊
『時を呼ぶ声』久世光彦著 立風書房 1999年7月刊
『あの日、青い空から― 久世光彦の人間主義』高志の国文学館 2015年7月
『ダニー・ボーイ マイ・ラスト・ソング4』久世光彦著 文藝春秋 2004年1月刊