キャビアと林業試験場
いつもの書店で店内を回遊していて、文庫本のコーナーまで来たとき、著者名「よ」の列で米原万里(1950-2006)さんの名前が目に留まりました。
ロシア語会議通訳者の米原さんはもう故人だけれど、これまで随筆集を数冊読んできて、歯切れのいい筆致やアメリカ経由でない欧州の知識が懐かしくて、未読の1冊を購入しました。文春文庫の『旅行者の朝食』です。
読み進めたら「キャビアをめぐる虚実」の一文で、“ジッパー”の話が出てきました。
あっ、これは”黒部のYKK”の話だと、すぐに分かったのだけれど、“富山”があまりにも呆気なく見つかって、しかも定番のYKKというのは出来過ぎなので、どちらかというと失望に近い気分になってしまいました。
そこで、なんだか天の邪鬼の気分で、というか意地もはたらいて、翌日、もう一度書店に出かけ、同じ文春文庫から1冊、別に新潮文庫から1冊、都合2冊を買ってきました。
そして1冊目、文春文庫の『偉くない「私」が一番自由』を開いたら、なんと同じ随筆「キャビアをめぐる虚実」が出てきてしまいました。同じ文春文庫で、同じ作品が重複して収録されているというのはルール違反じゃないの? 予想外でした。しかし、こちらの文庫は佐藤優氏の手による〝選集〟だったので重複もあるのでしょう。購入前に確かめなかった私がウカツといえばウカツな話で、苦笑ばかり。
気を取り直して、もう1冊の新潮文庫『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』を開きました。行きがかり上、“富山”を探さずにいられません。そうしたら、あっけなく出てきたんですよねぇ。次の文がそれです。
富山県の林業試験場を訪問した際に、説明にあたった場長さんが、盛んに「キンキュウカダイ」としか聞こえない言葉を連発されるので、「緊急課題」ととらえてロシア語に置き換えていた。しかし、話の流れから少しずつ、それが「研究課題」のことだと理解するに至り、「緊急課題を含む研究課題」なんて苦しい軌道修正をしたことがある。試験場が茨城県にあったなら、私もあらかじめ身構えて、「イ→エ」、「エ→イ」というフィルターを挿入しておくのだが、まさか新潟県の一部にも、エ段とイ段の境界線があいまいな地域があり、富山県の施設の責任者が、そこの出身者だとは予想だにしていなかったのである。
ということで、無事に“富山”が見つかり、意地を張っただけの成果がありました。
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かくして一件落着でありますが、折角ですから上述のキャビアの件もここに抜き出して、ご披露しておきます。
チョウザメは、河を遡って産卵するのだが、サケやニシンと違って産卵後息絶えるということはない。─中略─ これに注目した研究者たちは、母親を撲殺せずに一時的に気絶させるだけにして、帝王切開をおこない、キャビアを取り出した後は、開口部に特殊繊維を用いたジッパー(日本の誇るYKKが開発製造)を取り付け、同じ親魚が何度も産卵できる方式を実現している。
おっ、さすが日本のYKKと思いきや、3ページほど後に、次のように書いてあります。
なお、ジッパーの話、あれは嘘である。もちろん、YKKも無関係だ。
ということでありました。道理で、この随筆の題名に「…虚実」とあるのはそのためなのか。
(引用参考文献) 『旅行者の朝食』 米原万里著 文春文庫 2004年10月刊 『偉くない「私」が一番自由』米原万里著 佐藤優編集 文春文庫 2016年4月刊 『不実な美女か貞淑な醜女(ブス)か』 米原万里著 新潮文庫 1998年1月刊