富山と、戦時下のジャズ

 いつもの書店で音楽の棚を見ていたら、新しく入荷した書籍が目に入りました。手に取ってパラパラとめくったら、“富山”の2文字が目に止まったので、さっそく購入してしまいました。『近代日本のジャズセンセーション』という書籍です。

 日本におけるジャズ音楽の受容と普及の歴史を、1920年(大正9)から1945年(昭和20)まで、つまり終戦時までを通覧する読み物でした。もとは博士論文だそうで史実がびっしり出てきます。

 例えば、1927年(昭和2)は、ジャズへの関心が高まったピークで、新聞やレコード雑誌の読者投稿欄にジャズを希望する声が集中したそうです。あるいは、翌年1928年(昭和3)に「私の青空(♪夕暮れに仰ぎ見る~)」や「アラビヤの唄(♪砂漠に日が落ちて~)」が、レコードになったとあります。

 戦後生まれの私は、これらの曲を当時の真空管ラジオを通して知りました(ジャズというジャンルとは知りませんでしたが)。しかし、こうしたアメリカ音楽が日本で隆盛になったのは、戦後つまり1945年以後進駐軍アメリカが持ち込むそのずっと前からとは、まったく新知識でした(どうしてそんな国と戦火を交えちゃったんだろう?)

 さて、そこで、この書籍に出てきた“富山”の記述というのは、戦前の富山県人もジャズを知っていたという事象なのだけれど、どんな具合にこのコラムで取り上げようかなあと、寝床の中で考えているうちに…

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 高校の私の同級生が、ジャズの主要な楽器、サクソフォンを首から吊り下げていたこと。放課後の教室のカーテンの揺れる窓辺で吹いていたこと。そして、サクソフォンを専攻して芸大に入ったこと。彼は、後にプロとして一世を風靡する同じサクソフォン奏者と、芸大で机を並べていたと話していたこと。そして彼は、思うところがあってプロにならず富山へUターンして戻ってきたこと…そして、早世した…ことなどを、思い出していました。                

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 …いつの間にか、朝になっていました。
 話を冒頭に戻して、”富山”の記述をご紹介します。この書籍の中で次のような件に、出てきました。

 〈一九四一年五月二十二日付け「読売新聞」朝刊の投書欄には、「この頃軽音楽と称してジャズ調の音楽が朝からでもやたらに放送される。濁った音、頽廃的な扇情的表現、狂躁的なリズム、あんな音楽のどこがよいのか、全国聴取者の多くがあゝいふものを好むとはどうしても思へないのに、放送局は何を好んでかゝるものを放送するのか」というような、軽音楽放送への批判を富山市に住む読者が寄せている。
 ちなみに、一九四一年といえば八月にアメリカが日本への石油輸出を全面禁止することを発表し、十二月には太平洋戦争が始まる。〉

 当時の読売新聞に当たって調べてみると、この投書は、「軽音楽を廃せ」の標題のものでした。そして、省略されている続きがありました。

 それは、こうです。
 「音楽の人心に及ぼす影響は孔子様の昔から今日に至るまで言はれてゐる所である、放送局は音楽の国民精神に及ぼす大きな影響力について、もっと考へてほしい、現在の放送は面白くなくて而も為にならぬものが餘りにも多い。(富山市・一地方人)」
となっていました。

 掲載場所は、朝刊の“第1面”の「読者眼」というコーナーで、時代を代表する声として取り上げられていました。これをジャズ演奏にたとえれば、“一地方人”を名乗る富山県人が、楽団を代表して、“表舞台”でスポット・ライトを浴びながら演奏している、という構図でしょうか。

 この記事から推測される当時の富山の風土に鑑みると、私が生まれる前の、我が村の男衆は、当時はどうだったんだろうか、投書のまんまの富山県人だったんだろうか?

 それとも、時流に抗ってジャズを口ずさむハイカラさんもいたんだろうか? 戦後、私たち子どもが走り回っていた村祭りの座で、空襲や軍隊経験などを話していたのは、今は鬼籍に入った人たちなのだけれど…

引用参考文献
『近代日本のジャズセンセーション』青木学著 青弓社 2020年8月刊
「読売新聞1941年5月22日朝刊