「谷根千」から、縁(えにし)あれこれ
最近買い求めた書籍に『谷根千のイロハ』(森まゆみ著)があります。「谷根千」は“やねせん”と読み、東京都内のある地域のことですが、この書籍の序文によると、次のとおりです。
〈この本は、私が生まれて以来住んでいる文京区の根津、千駄木、台東区の谷中、荒川区の西日暮里、そして北区の田端あたりの歴史を書いたものです。
「谷根千」という地域名が今では普通に使われるようになりましたが、これは私たちが1984年に創刊した地域雑誌『谷中・根津・千駄木』から発祥したものです。〉
この地域雑誌は日本中のタウン情報誌のシンボルのような存在でしたが、2009年に終刊したとのことです。
さて、ちょうど1990年ごろ富山県では、地域おこしの行政施策として“コロンブス計画”が実施されていて、そのイベントの一環として、「谷根千」と森まゆみさんの活動の様子の話があった…朧げな記憶があります。
私は、その10年ほど前にUターンで故郷富山に戻って今の職についた頃だったので、自分の生まれ育った土地を知るための方法としての「谷根千」の活動に興味を持ちました。それから年月も経ちましたが、「谷根千」の意味をもう一度知っておきたい…、と、今になってこの書籍を買ったわけです。
さすがに地域雑誌の編集者の手になり、しかもご自身の地元の話題だけあって、地名と歴史的事象がしっくりと絡み合い、読み応え十分のものでした。そして私はと言うと、まだ「谷根千」という言葉がなかった頃「谷根千」の周囲で生活したことがあったので、懐かしさも込み上げてきました。
一通り読み終わってみると、富山や越中に関連する項目は、この書籍には出てきません。当たり前です。でも、再読してみると、牽強付会と知りながらも富山を導き出せる事柄があるとわかったので、数項目を抜き出して、富山との縁を書いてみます。
その⑴ 「駒込曙町に住んでいた人類学者の小金井良精」
小金井良精(1859-1944)と言えば、氷見の大境洞窟で人骨等が見つかった時、その鑑定に当たった学者です。そうして縄文時代が、弥生時代に先立つことが結論付けられました。(富山の氷見ってスゴイ!)
その⑵ 「幕末の江戸幕府の内にも、有能なテクノクラートがいて、その一人が、江川太郎左衛門(1801-1855)であるが、彼は、書を市川米庵に学び剣術は新道無念流の免許皆伝であった」
この市川米庵の父市川寛斎(1749-1820)は、儒者、漢詩人であり富山藩の藩校広徳館で教授を務めたことがある。また、当時の江戸で神道無念流といえば、氷見出身の斎藤弥九郎(1798-1871)の道場(練兵館1826-?)に違いない。(これも氷見だワ!)
その⑶ 「駒込千駄木林町には、洋画家の難波田龍起が住んでいた」
難波田龍起(1905-1997)と言えば、富山市内のギャラリーに難波田親子の「難波田龍起、史男記念美術館」があります。私事ですが、史男の作品が好きです。
その⑷ 「千駄木の往来と呼ばれる今の保健所通りは『銀行通り』と言われ、安田銀行の安田家もあった」
掲載されている写真のコメントによると、富山出身の安田善次郎一族の家屋敷であることがわかります。
しかし、こうやって、書きならべても、なんだか隔靴掻痒の感があります。
そこで、著者の森まゆみさんが、実際に富山においでになった記述が他の書籍ながら載っているので、その一節をご紹介して、私の拙文の締めくくりとします。それが、これ…
〈 二〇〇八年八月五日、私は富山空港でとっぷり暮れる夕方の三時間待たされた。東京が昼前の集中豪雨のため羽田空港が混乱したのだった─後略 〉
(引用参考文献) 『谷根千のイロハ』森まゆみ著 亜紀書房 2020年2月刊 『町づくろいの思想』森まゆみ著 みすず書房 2012年7月刊 『実験劇場とやま 富山県コロンブス計画の出航』富山県発行 1990年9月刊 『みゃあらくもんが富山を創る 富山県コロンブス計画の航海日誌』富山県発行 1993年11月刊