上皇陛下と、ブライス教授と北星堂書店のこと

北星堂書店の事績とそれを取り巻く富山県関連の英語学者について寄稿した富山の同人誌「群峰8」(2023年4月刊)
私事ですが、今年の4月に富山の同人誌「群峰8」に一文を載せる機会がありました。それは「富山県人が起業した出版社、北星堂書店 ー戦前、海外に日本を紹介することに貢献した出版社」と、題します。
その際に北星堂書店の大切な事績を書き洩らしました。そこで、その事績を、今回の「とやまの見え方」に追補的に掲載してご紹介しようと思います。
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新天皇のもと新しい令和の時代となりましたが、いまは上皇とおなりになった陛下が、終戦後、まだ皇太子のころ、次のようなことがありました。平川祐弘先生の著書から引用いたします。
昭和21年から25年まで皇太子殿下や宮様方に英語の授業をさずけたヴァイニング夫人(千田注・Elizabeth Janet Gray Vining 1902-1999)の名前は日本でもアメリカでも実によく知られている。しかし昭和20年12月から学習院の教壇に立ち、皇太子殿下に20年近く英語の授業を授けたブライス教授(千田注・Reginald Horace Blyth 1898-1964) の事績は知られることがいたってすくない。ヴァイニング夫人の招聘についても、裏でそれとなく山梨学習院長に良き示唆を与えた人はブライスさんである。占領下日本の皇室外交ともいうべき「人間宣言」とヴァイニング夫人招聘の二つをめぐり、その蔭の演出者ともいうべき役柄を二人で組んで果たしたブライス教授と山梨勝之進提督 ―以下略―
平川先生は、続けてブライス教授と山梨勝之進提督との“不思議な因縁”をお書きですが、この記述に先立ち、先生は、ブライス教授について次のようなエピソードもお書きなのです。引用いたします。
東京の神田錦町に北星堂という英語教科書の出版やラフカディオ・ハーンの英文講義録の出版で知られた書店がある。いまの社長は中土順平さんだが、先代の中土義敬さんが店主の昭和17年12月29日に、この書店は1冊の奇書ともいうべき英文著書を千部発行した。Zen in English Literature and Oriental Classics by R.H.Blyth がそれで、普通ブライス著『禅と英文学』と呼びならわされているが、邦訳はまだ出ていない。
昭和17年末といえば日本軍は南方ソロモン諸島ではアメリカ軍と死闘を続け、西方インド国境付近ではイギリス軍と激しく戦っていた時期である。そのような戦時下の日本で、北星堂はこのブライスというイギリス人の著書を出版したのである。主題が東洋文化に関するからこそ許された発行ででもあっただろうか。ナチス・ドイツやソヴィエト・ロシアのような全体主義国との比較においてはもとより、米英などのいわゆる自由主義国との対比においても、戦時下の日本で許されていた出版の自由の幅の広さに私は驚かざるを得ない。著者のR・H・ブライス氏、元京城大学外人教師、前金沢第四高等学校教師は、昭和16年12月、太平洋戦争勃発とともに敵国国民として金沢市で逮捕され、神戸付近へ抑留されてしまった。それなのに北星堂の中土さんは著者との約束をたがえず、開戦前に受取ったブライス氏の原稿をきちんと1冊の書物にまとめたのである。いったい誰がこの446ページの英文著書の校正をしたのだろう。誰が索引をつけたのだろう。当時の米英で抑留された日本人や日系市民で、日本文はもとより英文でも、著書を刊行し得た人はいなかった。そのことを思うと、私はその頃の日本の出版道徳の義理堅さに心打たれるのである。
そして、平川先生の著書に、こうあるのです。
この『禅と英文学』の出版が後に一つの契機となって、3年後の昭和20年末、ブライス氏は思いもよらぬ事件に裏からかかわるようになった。天皇の「人間宣言」がそれである。
ブライス教授の詳しい業績や人となりについては、平川先生の著書を、是非とも読んでいただきたい。ここに出てくる北星堂とは、中土義敬さんが東京神田で大正4年に創業し、関東大震災、東京空襲を乗り越えて中土順平さんが二代目として継承した英語書籍の出版社です。そして、戦前戦後の英語書籍出版で大きな足跡を残したこの義敬(1889-1945)、順平(1915-2005)の二人が、富山県出身の出版人なのです。
富山大学の「ヘルン文庫」に隣接して「中土文庫」が設置されており、ラフカディオ・ハーン(小泉八雲)関連の書籍やその他の出版事情の一端を知ることができます。また、「高志の国文学館」にも、中土家に残されていたラフカディオ・ハーン関連の貴重な資料が寄贈されています。
冒頭で紹介した「群峰8」にある拙文は、同社の事績とそれを取り巻く富山県関連の英語学者のことを、今少し詳しく述べたものです。御一読いただけると幸いです。
(引用参考文献)
『平和の海と戦いの海-二・二六事件から「人間宣言」まで-』平川祐弘著 新潮社 1983年2月刊
『群峰8』「富山県人が起業した出版社、北星堂書店-戦前、海外に日本を紹介することに貢献した出版社」千田篤著 富山文学の会 令和5年4月刊