オートバイの青年

 つまずいて、枕元に積んである書籍と雑誌の山が崩れ、散らかってしまった。もしこれを家人に話しても、「散らかっているのは、いつものことでしょ」と言われそうで、言葉を飲み込みました。

 さて、その崩れた本の中から、購入した記憶のない文庫本『美酒礼賛』(山口瞳著)が出てきました。山口瞳(1926-1995)さんの死後、残されたたくさんの随筆集から酒に関する作品を選抜した文庫本です。

 私は、山口さんの随筆集を書棚にズラッと並べているファンなので、わざわざこの文庫本を購入する必要はないのですが、現にあるということは、何らかの購入動機があったのでしょう。ところが、どうも思い出せません。

 この文庫本は、書名が山口さんらしくないことが気になり、時おり書店で手に取ってはいたのですが、どうして買っちゃったんだろう。

 推測するに、酒という一つのテーマに絞ってあるので再読しやすいとでも思ったのか、あるいは、書店で立ち読みしていて富山に関する記述を見つけ、“備忘”のために購入したのかなあ。それなら、該当ページに目印の付箋を付けたり、栞をはさんでいそうだけれど、そんな痕跡はないし…。ああだ、こうだと思案しながら、寝転がって読み始めました。

 やはり山口さんの随筆は面白い。久しぶりに変奇館主人のお説教を楽しみながらページを繰っていくと、案の定、「良い接待さんの条件(加賀)」と題する随筆で、富山の記述が出てきました。秋の加賀温泉駅に降り立った時に、

〈あったかい。皮のコートにブーツという完全装備で来たのだが拍子抜けする思い。「越中の立山、加賀では白山、駿河の富士山、三国一」の白山の雪がクッキリと見える。〉

 しかし、この程度の記述で、わざわざ“備忘”のためにと文庫本を買うかなあ。動機としては薄弱だなあ。

 さらに読み進んでいくうちに、「松江 皆美館の鯛めし」と題する随筆に出会いました。島根県松江の老舗旅館、皆美館での出来事です。

〈皆美館は、古来、ラフカディオ・ヘルン、島崎藤村に愛され親しまれた旅館である。田山花袋、与謝野鉄幹・晶子夫妻、志賀直哉もよく泊っていたそうだ。そういうと、何か御大層な怖しいような旅館だと思われるかもしれないが決してそんなことはない。日本海の国道を富山あたりからオートバイでぶっ飛ばしてきたと思われる青年が、気軽に、館内にあるみな美という食堂で鴨鍋なんかを注文している光景はほほえましく思われる。これが地方都市の良さであるまいか。そんなお値段で鴨鍋でも蟹スキでも食べられるのである。〉

 見つけたぞ、これこそ、この一節こそ、きっと私が重複をいとわずにこの文庫本を購入した理由に違いない。

 山口さんはご存知かどうか…、私が蛇足を付け加えるなら、富山大学の図書館には、小泉八雲すなわちラフカディオ・ヘルンが生前に所有していた蔵書の大半を大正末期から収蔵している「ヘルン文庫」があります。それは、ヘルン研究の第一級資料として世界の研究者にとどろいています。そして青年が、その富山から、ヘルンで名高い松江に、オートバイでやってきている。その青年が老舗旅館で湯気の上がる鍋料理を前にしている。それを、名文筆家山口瞳さんの冷静な観察眼がとらえている。

 こんなにドンピシャリの富山情報なんて、そうそうあるもんじゃない。私が、文庫本の購入を我慢して帰宅して書棚を調べるなんてまどろっこしいことをせずに、何はともあれ“備忘”のためにこの文庫本を購入したのももっともなことである。

 ……やがて、私の静かな興奮も覚め、この文庫本のもとになる単行本の随筆集『行きつけの店』を書棚から引き出して調べてみたら、該当箇所に、古ぼけた付箋が、ちゃんと付いていました。

(引用参考文献) 
『美酒礼賛』山口瞳著 角川春樹事務所2007年3月刊
『行きつけの店』山口瞳著 株式会社ティービーエス・ブリタニカ 1993年4月30日刊
『温泉に行こう』山口瞳著 新潮社 昭和60年12月15日刊

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